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№822 ルカ24:28~32

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

*コメント
イエスの十字架から三日後のこと。二人の弟子が、失意のうちに、エルサレムからエマオという村へ向かった。二人は、途中で道連れになった巡礼者から、「メシアは苦しみを受けて栄光に入る」との、聖書全体についての懇切な説き明かしを受け、次第に心が開かれてきた。夕方、エマオに着いたとき、二人は旅人を引き止めた。そして、食事の席で旅人が賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡してくれたとき、二人の目の被いが取り除かれ、その人がイエスだとはっきり分かったが、その姿は見えなくなった。不思議に印象深いエマオの物語である。

二人の弟子は、死より復活して生きておられるイエスを見奉ることができた。復活信仰、復活体験は天からの啓示であり、神の賜物である。説明しがたく、捉えがたく、他者には信じがたいものである。復活については、今日の信仰者も様々の解釈や意見を持っている。聖職者や学者でさえ、十人十色どころか百人百様である。「空虚な墓」がイエスの復活の証拠だと頑張る人もいるが、やはり復活の主に直にお会いするのが一番である。


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№821 ルカ23:50~56

 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。

*コメント
 アリマタヤのヨセフは議員であり、金持ちであった。マタイには「イエスの弟子であった」とあり(27:5)、隠れた信仰者で善良な人であった。彼は勇気を出してピラトに掛け合い、イエスを鄭重に埋葬するのである。事は急を要した。律法の規定によれば、木にかけられた死体は、その日のうちに埋めねばならない(申21:22~23)。しかも、その日の夕方から安息日が始まるのである。ヨセフはイエスの遺体を高級な亜麻布で包み、新しい岩に掘った穴の墓(富豪の墓)に納めた。ガリラヤから来た婦人たちが手伝ったのであろう。アリマタヤのヨセフが示した愛と信仰、そして最後までイエスに奉仕した婦人たちの行動は、特筆されるにふさわしい。イエスの直弟子たち名は、ここに一人も記されていない。

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№820 ルカ23:44~49

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

*コメント
 全地が暗闇に包まれ、至聖所の垂れ幕が裂けた。イエスの死に際しての神の御意志の現れであろう。ユダヤ人が神の独り子を十字架刑に処したことによって、神殿における礼拝の正当性は失われ、すべての人が神に近づく道が開かれたのである。イエスは大声で叫ばれ、父なる神に霊をゆだねられた。御自分の使命を果たされたのである。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というマルコ15:34とは異なった描き方である。処刑を監督した異教人の百人隊長がイエスの無罪を告白し、神を賛美したことは驚くべきことである。ところで、イエスの弟子たちはどこに行ってしまったのか。遠くに立って、これらのことを見ていた「すべての人たち」の中に含まれているのだろうか。

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№819 ルカ23:39~43

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

*コメント
 イエスをののしった犯罪人は、メシアとは現世的な救いを与えてくれるもの、との考えであった。議員や民衆と同じである。驚くべきはもう一人の方である。彼は十字架上の死に臨んでこれまでの自分の罪悪を認め、刑罰を当然のものと受け止めた。そして、隣にいるイエスをまことのメシアと信じた。彼の回心と信仰こそ奇跡である。「わたしを思い出してください」との願いに、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とお答えになった。イエスはこの上ない恵みを約束されたのである。私たちも、この御言葉を自分へのものとして受け止めよう。

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№818 ルカ23:32~34

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。[そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」] 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

*コメント
 イエスは十字架をゴルゴタまで運ばされ(途中で力が尽きたため、シモンというキレネ人が代わりにローマ兵によって担がされた)、二人の死刑囚の真ん中に釘で手足を打ちつけられた。この恐るべき激痛の中で、イエスはなお迫害者の赦しを御父に祈られた。彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」。イエスは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6:27)という教えを、自らの命をもって証ししてくださったのである。

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№817 ルカ23:20~25

 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。

*コメント
ピラトは最高法院の会衆によって連れて来られたイエスを無罪と認め、釈放しようと三度も努めたが、祭司長や律法学者、議員らはもとより、民衆もこぞってイエスの死刑を叫び続けた。傲慢なピラトも、彼らの要求についに押し切られた。結果、反乱と殺人のかどで判決を待っていた熱心党のバラバが釈放され、イエスはローマの兵士に引き渡された。

不思議なのは民衆の変心である。つい先日まで、彼らはイエスの話を聞こうとして、イエスのもとに朝早くから集まって来たのである。祭司長たちに煽動され、群集心理が働いたのであろうか。いずれにしても、民衆にも大いに罪はある。彼らは決定的な場面でメシアを拒んだのである。しかし、すべては神の御計画の内の出来事であろう。

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒2:23)


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№816 ルカ22:66~71

 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

*コメント
 サンヘドリンが開かれた。宗教裁判である。祭司長たちはイエスを信じることができず、認める気もなかったが、最も気にかかっていた二つのことを尋ねた。彼らはイエスに対し、まず「お前はメシアか」と露骨に聞いた。イエスは、然り、と答えられた。もうすでに覚悟はできているのである。「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と。彼らの考えているメシアと、イエスの言われるメシアとは、まったく意味が異なるのであるが、彼らはそのことを理解しようとしないであろう。彼らは更に、「では、お前は神の子か」と尋ねた。これに対しても、イエスは、然り、と答えられた。質問者に連帯責任を負わせる仕方でもって。


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№815 ルカ22:59~62

 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

*コメント
イエスが連行された大祭司の屋敷の中庭である。ペトロは大祭司の手下たちに紛れて焚き火にあたっていたが、女中や周りの男たちから疑いの言葉をかけられ、次第に追い詰められる。三度目の否認をしたとき突然鶏が鳴き、ペトロは振り向かれた主イエスと目が合った。最後の晩餐の後、イエスが預言したとおりになったのである。ペトロが、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と断言してから、まだ半日も経っていない。ペトロは主を完全に裏切ったのである。彼は、自分の不実、弱さ、つまらなさを思い知らされた。しかし、イエスのまなざしは怒りではなかった。愛のまなざし、憐れみのまなざし、赦しのまなざしであったろう。それが余計にペトロを責めた。彼は外に出て、激しく泣いた。

顧みれば、私も父母をはじめ多くの人を裏切った。自分の弱さ、愚かさが悔やまれるが、歳月は帰らない。

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№814 ルカ22:39~46

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 [すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。] イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

*コメント
 最後の晩餐の後、イエスは弟子たちと共にゲッセマネの園に行かれ、父なる神に最後の祈禱を捧げられた。イエスは、それまでに三度「死と復活」を予告しているように、御父の御旨は重々悟っておられたのであるが、身に刻々と死の危険が迫る今、もう一度神の御心を確かめられたのである。イエスはこの苦闘の祈りにおいて、御自分の死こそ神の御計画が成就する道であることを確信し、その定めに従順に従うことを決断された。天使の現れは、我々の知りえない消息、神の助けであろう。祈りを終えて立ち上がったイエスは、すでに勝利の人であった。

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№813 Ⅰヨハネ4:9~10

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

*コメント
まったく信じがたい話である。話がうますぎるのである。それほど、神の愛は私たちの思いを超えて広く深い。キリストの生と死と復活こそは、神の愛のまったき現れであり、愚かで頑なな罪人を救うために、神はそこまでしてくださったのである。実に、私たちは救われないから、救われるのである。自ら助かる道がないから、助けてくださるのである。

ところで、私たちが信仰を賜ることとキリストの復活とは、まったく時空の異なる出来事のようで、実は即今の出来事である。これまた、人間の頭を超えた事実なのである。


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