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№791 申命記10:17~19

 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。

*コメント
 ウクライナからの避難民の受け入れや支援活動が、ポーランドや周辺国、EU諸国、国連などを中心に、辛抱強く行われている。我が国もかつてないほどの積極的な対応をしている。私たちの魂の根底には、神の言葉が刻み込まれており、それが善なる行動を促すのである。

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№790 ルカ17:26~30

 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現われるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現われる日にも、同じことが起こる。

*コメント
人の子、イエス・キリストの再臨は最後の審判のときである。すべての敵対勢力は滅ぼされ、忠信なる者は報われ、神の救いの業が完成すると言われている。世の終わりである。そのときには、ノアの洪水やソドムの滅亡のようなことが起こる、とイエスはここに預言されているのである。

これらの出来事は、世界的な規模で、時間的・空間的に目に見える現象として起きるのであろうか。むしろ裁きは、日常性に埋没している私たち一人一人に対してなされるのではないか。しかも、その裁きは肉眼ではなく、心眼をもって悟ることができるような性質のものではないか、と密かに考えている。

ある出来事を裁きと捉えるそのときに、キリストは既に再臨しておられるのではなかろうか。キリストが来られて裁かれるというよりも、裁きの事実、救いの事実によって、私たちはキリストの再臨を知るのである。

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№789 詩篇58:12

神に従う人は必ず実を結ぶ。
神はいます。
神はこの地を裁かれる。

*コメント
神に従う人は必ず報いを受け、神に逆らう者は必ず裁かれる。まともな社会は、この基盤の上に築かれ、この信念が揺らぐとき、社会は動揺する。元首相銃撃の容疑者が、困窮の中で放置されるのでなく、親身に相談に乗り、支援の手を差し伸べる仕組みがなかったのが悔やまれる。

次第に明らかになってきたことは、多くの政治家が旧統一教会と癒着し、国民の心と財産をむしばんでいることである。神は今しばらくサタンを泳がせ、その後厳しく罰せられるであろう。

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№788 ガラテヤ3:1

 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。

*コメント
 この聖句の解釈はいろいろあるが、私は文字どおり受けとめている。私の信仰は、要するにキリストの十字架が眼前に現われたことに始まる。私は、約20年前、真宗に救いを見いだしたつもりでいたが、なお己が罪の意識に責められていた。キリスト教については、殆ど何も知らなかった。書店で偶然手にしたR・オットーの『聖なるもの』という難解な本が手元にあるのみで、聖書も持っておらず、読んだこともなかった。5月の連休のある日、悩みを抱えて部屋に一人でいるとき、突然、キリストの十字架が眼か脳裏に映じた。私は、キリストによって罪を赦された、と全身で感じた。私の信仰は、今日に至るまで、要するにこれだけである。

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№787 ルカ17:22~23

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。」

*コメント
弟子たちは将来、苦しい試みの中で、人の子の再臨を待ち望むようになるだろうが、その日を見ることはできないだろう、とイエスは言われる。そのようなとき、必ず偽メシアが現われて、「私がそれだ」と言うのである。戦後の混乱期に韓国に現われた偽メシアが我が国に進出し、今日に至るまで甚大な禍をもたらしている。彼らのまやかしに誘惑されてはならない。まことのメシアなら自分で名乗らなくても、キリスト者は知ることができるのである。

ところで、キリストの再臨については、神学者も聖書学者も教会もはっきりしたことを言わない。私は、終末は決して時間的未来のことではないと受け止めている。もし、時間的未来にそれがあるならば、それは終末ではあるまい。

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№786 ロマ3:21~22

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

*コメント
 私たちは生まれながらの罪人であり、生まれて後も罪を積み重ねている身である。しかも、神から示された律法を守れない哀れな存在である。この私たちのために神が開いてくださったのが、御子イエス・キリストを信じることによって神に義とされる(救われる)道である。キリストはその死と復活によって、私たちの罪の贖いという大業を成し遂げてくださった。このことを信じるだけで、私たちは救われるのである。信仰義認である。パウロの全手紙の要義はここにある。

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№785 ルカ17:14~16

 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。

*コメント
 重い病をいやされたのは10人であったが、戻って来たのはサマリア人1人だけであった。9人のユダヤ人は、病は治ったが、それ以上のものは賜らなかった。イエスの足もとにひれ伏して感謝したサマリア人は、病の治癒に加えて信仰と永遠の命を賜ったのである。神の御業によって救われた人、それを悟った人は、全身全霊で喜びを表さずにはいられない。自ずと神への賛美が口に出る。イエスへの感謝が湧いて出る。十字架に救われた者なら分かるはずである。

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№784 詩篇58:4~7

神に逆らう者は
  母の胎内にあるときから汚らわしく
欺いて語る者は
  母の腹にあるときから迷いに陥っている。
蛇の毒にも似た毒を持ち
耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで
蛇使いの声にも
巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。

神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。
主が獅子の牙を折ってくださるように。

*コメント
 情報社会、デジタル社会は便利だが、フェイク・ニュースやプロパガンダに満ちている。また、著名な政治家、学者、コメンテーター、タレントなどが、為にする発言や無責任な情報を発信している。いずれ淘汰されるだろうが、彼らを安易に信じると罠にかかり破滅する。私たちには、信頼できる人や情報を見分ける判断力や知恵が必要だ。

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№783 ルカ17:5~6

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

*コメント
 使徒たちは、自分たちの信仰の量を増やしてください、とお願いしたのであるが、イエスは、あなたたちにはからし種一粒ほどの信仰もない、と言われた。どだい信仰とは、升目で計れるものではなく、有るか無いかの問題である。信仰があれば百点、無ければ零点。自分は八十点とか六十点とか思っている人は、みな零点なのである。オール・オア・ナッシングである。専門家が、警備は百点か零点しかないと言っていたが、それと似ている。いずれにしても、私たちは信仰によって義とされ、救われるのである(ガラテヤ2:16)。

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№782 マタイ20:26~27

 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

*コメント
教会の中でさえ、人は仲間に勝とうする。私たちの奥底にある罪のなせる業である。この心は、キリストによって罪を贖われない限り無くならない。いちばん下がいちばん良いのだ。

世の中には、信者に壺や印鑑などの高額商品を買わせ、高額献金を競わせる宗教団体もある。こんな団体はもとより論外だが、他者に勝ちたいという人間の罪と欲を刺激するのだろう。

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