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№760 ルカ14:21~24

 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここへ連れて来なさい。」やがて、僕が、「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」

*神恩コメント
 イエスのたとえ話である。主人は、あらかじめ宴会(神の国)に招待していた人たちの所へ僕を送り、用意が出来たので来てください、と言わせた。ところが、彼らはこの世のことで頭がいっぱいで、皆いろいろな理由を付けて断った。折角の招きを断ってしまったのである。主人は父なる神、僕はイエスである。この結果、神の国へは、当初招かれていた人たちではなく、貧しい人や体の不自由な人たちなどが招かれることになった。神の福音に接しながら、真剣に聞こうとせず、後回しにしていると、神の国は閉ざされてしまうのである。

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№759 ヤコブ4:5~6

 神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。

*神恩コメント
 信仰によって聖霊を賜る。神がくださるこよなき恵みである。人と生まれてこれを戴かぬ手はない。イエスをキリストと信じ、罪を赦されて私たちは聖霊を受けるのである。すると、私たちは生ける神の神殿となり、霊によって生きるようになる(Ⅱコリント6:16、Ⅰコリント12:4~)。これ以上の不思議はない。

 「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)

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№758 ルカ14:8~11

 婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、「この方に席を譲ってください」と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、「さあ、もっと上席に進んでください」と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

*神恩コメント
 イエスの譬え話である。単なる処世的な教訓ではなく、イエスは日常の出来事の背後に、神の御働きを見ておられる。神は、私たちの高ぶりや思い上がりを、懲らしめられるのである。私も壮年期に、会合で似たようなバツの悪い思いをしたことがある。神は、身の程を弁えぬ私に、へりくだることを教えてくださったのである。私たちは頭をぶつけないと真理を悟らない。

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№757 詩篇33:16~18

王の勝利は兵の数によらず
勇士を救うのも力の強さではない。
馬は勝利をもたらすものとはならず
兵の数によって救われるのでもない。

見よ、主は御目を注がれる
主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

*神恩コメント
 ミサイルや戦車、空母の数は決定的なものではない。核兵器や兵の数が勝利を決めるのでもない。どちらが神の御目に義とされるかが問題なのである。私たちは、今それを目にしている。世界は再び、自由民主主義国と専制主義国に分断されつつある。ロシアと中国の民が自由と民主主義の価値に目覚めますように。共存共栄の平和な世界が実現しますように。


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№756 Ⅰヨハネ5:12

 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

*神恩コメント
「この命」とは「永遠の命」。イエス・キリストを信ずる人、御子と結ばれている人は永遠の命を賜っている。だから、名もなく、貧しく、病弱で、孤独であろうとも、豊かである。すでに、この上ない富をいただいているから、あくせくしない。

神の子と結ばれている人には、神の子が来て下さっている。その人は、キリストと一緒に生きているのである。彼にとって、死は永遠の命への入り口である。

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№755 詩篇33:1~3

 主に従う人よ、主によって喜び歌え。
 主を賛美することは正しい人にふさわしい。
 琴を奏でて主に感謝をささげ
 十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
 新しい歌を主に向かってうたい
 美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

*神恩コメント
 日毎に、朝毎にかくありたい。聖霊に満たされて賛美はほとばしる。平凡な一日、つまらぬ一日などない。今、生かされていることを喜ぼう。今日は、二度とない日、貴重な日である。命あるうちに、命の主なる神を知ろう。生きていること、自分が存在することは奇跡。賜った命を喜び、生き生きとした生活を送ることこそ、神への感謝、ほめ歌。日々新たにされて信仰に生きよう。

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№754 ルカ13:33

 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。

*神恩コメント
 イエスは悪霊を追い出し、病気をいやし、福音を告げ知らせながら、神の都エルサレムへ、十字架の死に向かって進まれる。それが父なる神の御旨であることを悟っておられたからである。イエスの御後に従う信仰者も、己が小さな使命を全うすべく、今日も明日も明後日も歩み続けるのである。

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№753 ルカ13:22~25

 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」

*神恩コメント
 この男は、自分の救いがまだ切実な問題になっていない。イエスはこれに対し、問題を自分のこととして捉えなおし、狭い戸から入るようにと言われた。神の国への道は、誰にでも開かれているが、安易にはくぐれない。堕落の道と違って狭いのである。しかも、戸が開いている今入らないと、すぐに閉じられてしまう。溺れる者は藁をもつかむのである。求道は、死に物狂いというか、身命を顧みずというところがないとダメなようである。神の方でも、それだけ真剣に私たちを救おうとしてくださっている。ある時期には、焼け付くような熱心が要るようだ。

 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリント5:14)

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№752 ルカ13:18~21

 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
 また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

*神恩コメント
神の国という言葉は、固定的で静止的な感じがするが、神の支配と言い換えれば、動的で生きたものとなる。事実、神の国は生きており、からし種がやがて木に成長するように、初めは小さくても驚くべき成長を遂げると言われる。また、神の国の福音は、パン種のように人々を内的に変化させ、ついにはこの世全体が変えられていくと言われる。

すべては神の力、真理の力であり、人間の功績ではない。ガリラヤという片田舎に蒔かれた福音の種が、世界のキリスト教会に発展した。わが神恩キリスト教会もからし種一粒であるが、いずれ空の鳥が巣を作るほどの木に成長するものと信じている。人間の力では不可能だが、神の力、御言葉に依り頼む。

 あなたの初めは小さくあっても、
 あなたの終わりは非常に大きくなるであろう。(ヨブ8:7、口語訳)

このほどTwitterを始めました。sinon-masa75(@Masa75M)でつながるはずです。

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№751 詩篇29:1~2、11

 神の子らよ、主に帰せよ
 栄光と力を主に帰せよ
 御名の栄光を主に帰せよ。
 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。

 どうか主が民に力をお与えになるように。
 主が民を祝福して平和をお与えになるように。

*神恩コメント
 私たちは皆、神にかたどって創られたのではないか。
 神の栄光を宇宙に顕すべく
 鼻に命の息を吹き入れられたのではないか。
 驕り高ぶらず、命を喜び、平和な暮らしを楽しもう。
 皆ともに神の御前にひれ伏し、大いなる恵みを感謝しよう。

 ウクライナの民に戦いを勝ち抜く力を賜りますように。
 いわれなき過酷な侵略に耐えている不屈の民に
 早く平和が訪れますように。

 破壊され廃墟となった街々に復興の力が与えられ
 ウクライナは不死鳥のように蘇る。
 勇敢な民に神の祝福が降りそそぐ。

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