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№677 箴言14:1

 知恵ある女は家庭を築く。
 無知な女は自分の手でそれをこわす。

*神恩コメント
 無知な女とは、自分が賢いと思っている愚かな女。本当に賢い女性は、自分が愚かで無知な女であることを知っている。その人は神から知恵を戴いたのである。家庭を築くもこわすも、真の賢さにかかっている。男にも同じことが言える。

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№676 詩篇19:13~14

 知らずに犯した過ち、隠れた罪から
 どうかわたしを清めてください。
 あなたの僕を驕りから引き離し
 支配されないようにしてください。
 そうすれば、重い背きの罪から清められ
 わたしは完全になるでしょう。

*神恩コメント
私たちは神の御前に、傷のない義しい者として生きたいと願っている。古来、洋の東西を問わず、多くの人が悟りや救いを求めて、死を賭した修行や血の滲むような勉学・精進を重ねて来た。しかし、高僧や名僧と言われる人は、それが自力では到底成し遂げることができないことを悟った人である。人間は、自力では己が罪や悪から清くなることはできない。否、それどころか、日々罪を増し加えているのである。その非力な私たちのために、キリストが十字架におかかりくださったのである。神が救いの道を開いてくださったのである。信仰者は、ただ十字架を仰ぐのみである。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)キリストから賜る御霊の助けによって、底なく罪深い己が身を知らされ、少しずつ清められていくのである。

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№675 詩篇129:1~4

 イスラエルは言うがよい。
 「わたしが若いときから
 彼らはわたしを苦しめ続けたが
 わたしが若いときから
 彼らはわたしを苦しめ続けたが
 彼らはわたしを圧倒できなかった。
 耕す者はわたしの背を耕し
 畝を長く作った。」

 主は正しい。
 主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。

*神恩コメント
イスラエルは古来、エジプト、アッシリア、バビロニアなどの大国に苦しめられ、従属されられた。ウクライナも同じである。ずっとロシアに支配され、虐げられてきた。今は、空爆、ミサイル攻撃、戦車の蹂躙によって主な都市は灰燼に帰した。特に、マリウポリの惨状は言語に絶する。多くの市民や子供たちが傷つき死んでいる。ロシアはウクライナ国民の背に消えることのない傷跡をつけ続けている。主よ、ウクライナの国民がロシアの軛や枷を逃れることができますように。

これはどこか遠い国の話ではない。明日は我が身だ。我が国民も安逸をむさぼっている場合ではない。



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№674 詩篇128:2~4

 あなたはいかに幸いなことか
 いかに恵まれていることか。
 妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。
 食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。

*神恩コメント
 時にはこのように有り難く思えても、妻の態度に腹を立て、不出来な我が子を嘆く。それが私たちの実態である。しかし、この聖句が真実であることを、私たちは深いところで知っている。聖霊が教えてくださるのである。「平凡な暮らしこそ尊い」、ウクライナ避難民の言葉である。

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№673 ルカ2:15~17

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

*神恩コメント
羊飼いたちは天使の言葉に従ってすぐ行動し、救い主の誕生という驚くべき出来事の証人となった。私たちも、己が心の馬槽に芽生えた小さな信仰を喜び、大切に育んでいこう。

私たちは今、救い主の誕生という喜びの使信とは逆の、不幸な出来事に遭遇している。ウクライナへのロシアの侵略である。日々のニュースは私たちがこれにどう対処すべきかを告げている。私たちは傍観者であってはならない。私たちもそれぞれの方法で積極的に世界史に参画し、歴史の証人にならなければならない。核の脅威が現実のものとなった。

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№672 詩篇126:5~6

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
   喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

*神恩コメント
知恵も力もない凡人である。欠点ばかりの罪人である。取るに足りない、この世の敗残者である。風采の上がらぬ、見映えのしない素人である。誰が彼の言うことを信じるだろうか。しかし、彼はこの詩に希望を置いているのである。

伝道とは自分の信仰を貫くことである。彼のみが受けた神の命である。召されて後は、ただそれに生きるのみである。もとより大したことはできない。すべては徒労に終わるであろう。それでもよい。神が知っていてくださる。彼は自分の力ではなく、不可能を可能にしてくださる神を信ずるのである。

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№671 詩篇125:3~5

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
   幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

*神恩コメント
 各国に割り当てられた領土と主権は、他国の侵害から絶対に守られなくてはならない。これが平和の基礎である。プーチンの野望は打ち砕かれねばならない。ロシアのウクライナへの侵攻によって、第二次世界大戦後の秩序は大きく揺らいでしまった。ドイツは軍備増強へと方針を大転換した。前提条件が変わってしまったからである。米国の力が相対的に弱まる中で、我が国も中国、ロシア、北朝鮮の脅威にさらされている。もはや、憲法改正や核保有・核共有といった議論を避けて通ることはできない。キリスト者も例外ではない。

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№670 マタイ12:30

 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。

*神恩コメント
イエスは神の言葉を語り、神の業をなしつつ、神の国の民を集めている。このイエスの活動を見聞きしながらイエスに味方しない者は、単に味方でないだけではなく、イエスに敵対しているのである。人は、真理の側に立つか、それに反逆する側に立つかのいずれかであって、中立の立場に留まることはできない。私たちは、神に従うか、サタンに従うか、選ばなければならない。

ウクライナとロシアのどちらの側にも立たないという中国のあいまいな態度は、中立のように見えて、その実、ロシアを支援し侵攻に加担するものである。インドの中途半端な態度も同じである。いずれもサタンの味方である。

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№669 マタイ4:16

 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。

*神恩コメント
ロシアの侵攻開始から1ヶ月経った。ウクライナでは、地獄の惨劇が繰り広げられている。街はミサイルと空爆で破壊され、国土は戦車によって蹂躙され砲撃されている。女性や子供は地下に逃れるが、もはや安全ではなく、既に多くの命が奪われた。食料も水も医薬も尽きた。マリウポリは灰と化した。国外への避難民は350万人以上、他地域への避難民を合せると1000万人以上、その数はとどまるところを知らない。

しかし、兵士や青壮年男子は各地で果敢に抵抗している。ウクライナ国民は強国ロシアの枷と軛を逃れ、自由と栄光をつかむであろう。米国をはじめG7、EU諸国、世界の殆どの国がウクライナを支援し、あらゆる援助の手を差し伸べている。すべてを決するのは、正義の神の力による。勝利を信じよう。


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№668 ルカ1:28~35

 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

*神恩コメント
いわゆる処女懐胎の個所である。使徒信条には「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」とある。ルカによる福音書を1~2頁読んで、ここで止めてしまうかどうかである。処女懐胎は人間の知性では絶対に納得できぬところである。DNAや生理学・医学を持ち出すまでもない。何十年聖書を学んでも解決できるわけではない。思うに、福音書の記述の順に信仰の道に入ろうとしても、門戸は閉まっている。

そうではなくて、自分が罪人であることを知らされ、自分に絶望し、その悲惨さから何とか救われたいと心から願い求めるとき、キリストの十字架を仰ぐほかに道のないことが分かる。ここに信仰への道が開けるのである。キリストが私の罪を十字架上の死をもって贖ってくださったこと、他には助かりようのない自分であったことを納得するのである。ただ、感謝と喜びである。

そのとき、キリストの神性を信じることができ、処女降誕を神の奇跡として賛美することができるようになる。神の奇跡は人知を超えたものであり、説明は不可能であるけれども、真理として受け入れることができるのである。イエスが私たちのような只人ではなく、聖霊によって生まれた神の御子であることが信じられるのである。信仰とはそういうものであって、万巻の註解書を読んでも得られるものではない。

そして、信仰の道を歩み始めたとき、天使がマリアに告げた「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という言葉を、信徒は自分へのものと受け止めることができるようになるのである。信仰は神の恵みである。

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