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№730 ルカ10:42

 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

*神恩コメント
 私たちが生きていくために大切なことはいろいろある。様々の人間関係を保持すること、日々の用務や雑務をこなすこと。平凡な人生であっても、問題は次々と向こうの方からやって来る。あれも大事、これも大事と、私たちはそれに追われ、消耗してしまう。「しかし」、と主は言われる。「必要なことはただ一つだけである。」すべてを振り捨てて、御言葉に耳を傾けることである。主の御前に座することである。これが信仰者の生活である。「マリアは良い方を選んだ」のである。愛すべき姉妹、マルタとマリアの珠玉の挿話である。

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№729 エフェソ4:16

 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

*神恩コメント
 頭はキリストであり、信徒はその部分である。部分は分に応じて働き、キリストによって有機的な体に組み合わされ、愛のうちに成長してゆく。不要な部分などない。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。」(Ⅰコリント12:22~23)信徒は互いに認め合い、欠点を補い合い、共に生きることを喜ぶ。

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№728 エフェソ4:12~15

 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

*神恩コメント
聖なる者たち、すなわちキリストに罪を贖われた者たちは、キリストの賜物のはかりに従って、使徒、預言者、宣教者、牧者、教師とされた。これは現代も同じであり、私のような平信徒でも、分に応じた使命を賜り、同じ信仰と知識のもとにキリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する。

このことは、Ⅱコリント3:18にも、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とパウロが保証している。自らの信仰の薄さ、知識の不足、人間としての未熟さを嘆く毎日こそが、逆説的に聖化の証しであろう。

それにしても思う。このデジタル社会では、情報は求めずとも、向こうから飛び込んでくる。ネットやマスコミでは、専門家も素人も百花斉放、百家争鳴で喧しいこと限りがない。しかし、殆どの情報はゴミや虚偽である。知識の断片にすぎない。人々は何を信じ、何を拠り所として生きているのであろう。この死すべき命を。

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№727 ルカ10:30~37

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

*神恩コメント
律法の専門家は自分を正当化しようとして、「隣人を自分のように愛しなさい」と律法にあるが、「わたしの隣人とはだれか」とイエスに言った。「隣人」の範囲や定義を論じようとしたのであろう。これに対して、イエスは譬えでもってお答えになった。

追いはぎに襲われ半殺しになった人が道に倒れているのに、祭司やレビ人は、神に仕える身でありながら、見て見ぬふりをして通り過ぎた。これに対し、そこを通りかかった旅のサマリア人は、ユダヤ人とサマリア人は反目の間柄であったにもかかわらず、応急の手当と行き届いた介抱をした。三人の内で、だれが「隣人」になったかは明らかである。

助けを求めている人に、その時その場の状況に応じてできるだけのことをしてあげる人がその人の隣人になるのである。大事なのは隣人になること、すなわち実践であって、理論ではない。「隣人」の範囲や定義をあらかじめ決めておくことはできないし、その意味もないのである。

ところで、このサマリア人のような善き人が現実にいるとすれば、私たちの罪の贖い主イエス・キリストこそ、それであろう。だからこそ、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉に比類無き力があるのである。

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№726 ルカ10:23~24

 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

*神恩コメント
神の子であり、メシアであるイエスを目の当たりにしている弟子たちは幸いである。彼らは、神がイエスにおいてなし給う奇跡や、語り給う御言葉を見聞きしている。弟子たちは、特別の恵みにあずかっている。

これは、今日の信仰者に対する言葉でもある。私たちも、入信の前と後では見える風景が異なってくる。人生や自然、世界や歴史の意味が変わってくる。それまでの価値観が根底から覆るのである。福音に接し、これを信じる者は幸いである。彼らは選ばれた者である。


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№725 イザヤ12:1~3

 その日には、あなたは言うであろう。

 「主よ、わたしはあなたに感謝します。
 あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが
 その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
 見よ、わたしを救われる神。
 わたしは信頼して、恐れない。
 主こそわたしの力、わたしの歌
 わたしの救いとなってくださった。」

 あなたたちは喜びのうちに
 救いの泉から水を汲む。

*神恩コメント
 救いの日は必ず来る。様々の災いや不運は神の懲らしめである。自らの罪を思い知らされ、悔い改めて、すべてを神に告白する。そのとき罪が赦され、再び立ち上がることができる。新たな世界が開け、信仰に生きる者となる。懲らしめは恵みであり、導きであった。感謝であり、喜びである。神は救いの泉であり、恵みは尽きない。個人的体験である。

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№724 ルカ10:21~22

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

*神恩コメント
 聖霊に満たされたイエスの喜びの言葉である。救いをもたらす神の啓示すなわち福音は、知恵者や賢人ではなく、純朴な愚者である弟子たちに開示された。それが神の御意志である。なぜなら、福音は信仰によって受けるのであり、知性や精進によって獲得するものではないからである。イエスは、父なる神との交わりとその秘密をここに打ち明けられた。末弟の私たちも、ただイエスの功によって、この交わりに入れていただけるのである。すべては恵みである。

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№723 ルカ10:18~20

 わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

*神恩コメント
七十二人の弟子は伝道から喜んで帰って来た。イエスから委ねられた権威によって悪霊が屈服し、伝道の成果が上がったからである。イエスの霊眼には、サタンが稲妻のように天から落ちる様子がありありと映じたのであろう。しかし、喜ぶべきことは病人のいやしや伝道の成果ではなく、弟子たちの名が命の書に書き記されていることだ、と言われた。

私たちも命の書に名が記され、永遠の命が約束されているのである。これは信知すべきことであって、頭で理解することではない。信仰者の大安心はここにある。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)

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№722 ルカ10:16

 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。

*神恩コメント
弟子たちの口を通してイエスが語るのである。だから、弟子たちの言葉としか聞けない者は、福音を信じることができない。神の恵みによって、イエスの言葉すなわち神の言葉が胸に響いたとき、福音を信じるという奇跡が起きるのである。しかし、大方の人はイエスの言葉に耳を傾けない。神を信じない。現代も同じである。

「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」(使徒16:14)

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№721 ルカ10:3~4

 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

*神恩コメント
イエスは72人の弟子を選び、御自分が行くつもりの町や村に二人ずつ先に遣わされた。弟子たちは病気をいやす力と権能を授けられたとはいえ、狼の中に送り込まれる子羊のようなものである。イエスはいくつかの注意事項を与えた。要するに、身一つで出かけ、無駄なことで時間を空費せず、泊めてくれる家で出される物を食べよ、というのである。福音伝道は神の用務であるから、必要なものはすべて神が御用意くださるのである。

私たちも、こうして現世に遣わされてきた者なのである。しかし、信仰が薄れるとき、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩む(マタイ6:31~32)。明日のことを心配するな。信仰者のことは神が御心配くださる。信仰で武装し、自分も他人も頼みにせず、すべてを神に委ねて清貧に生きたいものである。

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