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№646 イザヤ40:28~31

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。
 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

*神恩コメント
 女性や子供、老人たちがポーランドに逃れてくる。その逆に、ウクライナを目指して国境をまたぐ男たちがいる。ポーランドに出稼ぎに来ていた男たちが、祖国防衛のため帰還しているのである。この戦争は、プーチンの、ロシアの負けである。正義のないところに神の恵みはない。狡知を究めた企みも、神の御知恵の前にはお笑いぐさでしかない。G7を中心に様々の制裁態勢が整いつつある。武器や資金等の支援もなされつつある。世界中に、ロシア国内にもロシアを非難する声が高まっている。中国のロシア支持は恥ずべきことである。

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№645 コヘレト9:10

 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。
 いつかは行かなければならないあの陰府には
 仕事も企ても、知恵も知識ももうないのだ。

*神恩コメント
 信仰者は陰府ではなく、キリストが神の国へ迎え入れてくださる。そこがどのような所か、人間の知恵や知識では知ることができない。行ってみなければ分からない。神の国ではこの世の仕事の続きをするのだという人もいるが、恐らくそんなことはあるまい。この世の務めはこの世で果たし、後顧の憂いなくかの世に行かせてもらうのだ。そこがどのような所か、行ってみなければ分からない。私たちにできることは、ただ信じて死ぬことだけである。

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№644 イザヤ43:16~20

 主はこう言われる。
 海の中に道を通し
 恐るべき水の中に通路を開かれた方
 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
 彼らを倒して再び立つことを許さず
 灯心のように消え去らせた方。

 初めからのことを思い出すな。
 昔のことを思いめぐらすな。
 見よ、新しいことをわたしは行う。
 今や、それは芽生えている。
 あなたたちはそれを悟らないのか。
 わたしは荒れ野に道を敷き
 砂漠に大河を流れさせる。

*神恩コメント
 昨夜、キエフに戦車が入った。今、ロシアによる大規模攻撃と大量殺戮が続いている。出ロシアのウクライナを力ずくで阻止するためである。いかにプーチンが追いかけようと、自由と民主主義の西側を目指す人々の希望は潰えることはない。彼らの願いは必ず実現する。海の藻屑となって消え去るのはファラオに決まっている。聖ソフィア大聖堂に向かって祈ろう。ウクライナ国民に神のご加護がありますように!核の使用さえちらつかせて世界を恫喝するプーチン。これは人類に与えられた神の試練である。それにしても、ローマ教皇もロシア正教も声明一つ出さないのはどう言うわけか。

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№643 マルコ16:7

 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

*神恩コメント
昨日の続きである。天使の言葉はどういう意味であろうか。ガリラヤは、イエスの神の国の福音伝道の原点であり、主な舞台でもあった。弟子たちは、そこでイエスと出会い、召され、御後に従う者となった。彼らは驚くべき新たな教えを聞き、様々の奇跡を目の当たりにし、イエスを信じて、エルサレムまで従って来たのである。しかるに、イエスが逮捕されたとき、逃げ散ってしまい、ペトロもイエスの仲間であることを否認した。

そのイエスに再び郷里でお目にかかれるのだ。といっても、生前のように肉に従ってイエスを見るのではなく、霊的に出会うのである。復活の主に出会うとは、霊的な出来事(開眼)と言ってもよい。弟子たちは、今度こそ、真にイエスの御後に従う者となるのである。なお、「お目にかかれる」を、復活の出来事ではなく、再臨を言い表しているとする註解があるが、賛成しかねる。

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№642 マルコ16:1~6

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

*神恩コメント
 墓が空虚だからと言って、イエスが復活したことの証明にはならない。逆に、復活という驚くべき出来事が空虚な墓という物語に結実したのであろう。とはいえ、実際に墓が空虚であった可能性を否定するものではない。いずれにしても、復活は霊的体験であって(Ⅰコリント15:3~8参照)、使徒や当時の信徒たちのみならず、今日の私たちも同じ体験をするのである。イエスは生きておられるからである。

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№641 箴言11:31

 神に従う人がこの地上で報われるというなら
 神に逆らう者、罪を犯す者が
   報いを受けるのは当然だ。

*神恩コメント
 神は、善には良い報いを、悪には悪しき報いを与えられる。私たちは、その時期や方法、程度を知ることができないだけである。これは神の摂理である。寒い国の悪魔大王も、今にその報いを受けるであろう。もとより、天罰覿面ということもある。

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№640 マルコ15:39

 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

*神恩コメント
 イエスが大声を出して息を引き取られたとき、驚くべきことに、刑を執行したローマの百人隊長が十字架の前で信仰を告白した。彼は、悲惨の極であるイエスの死に、神の子の死を見たのである。マルコ福音書の冒頭に、「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」とあるが、マルコをここまで読んできた私たちも、イエスを神の子として、キリストとして告白することができるだろうか。救いはそこにかかっている。

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№639 マルコ15:33~37

 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

*神恩コメント
 イエスは父なる神に見捨てられ、孤絶のうちに十字架に死なれた。神は、塵あくたのような私たちの罪の贖いのため、独り子をお見捨てになったのである。ここに、私たちの罪の深さと、計り知れぬ神の愛がある。キリストの従順がある。また、信仰の神秘がある。教義や理屈としてではなく、聖霊によってこれを信じる者は幸いである。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)

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№638 マタイ13:47~50

 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げて、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

*神恩コメント
 信徒とは網にかかった者たちである。神は網でもって救い上げてくださる。しかし、すべての者が救われ、天の国に入るのではない。にせ者や悪者は、いずれ選び捨てられる。神の裁きである。本物の信仰を賜るよう主に祈ろう。

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№637 マタイ13:44~46

 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

*神恩コメント
 私たちはあれも欲しい、これも欲しいと思うが、その実、自分が本当に欲しいものを知らない。本当に欲しいものを手に入れたら、他のものはあってもなくても良いはずである。では、本当に欲しいものとは何か。それは天の国である。神の支配する国に入れていただくことである。別の表現をすれば、永遠の命であり、救いであり、平和である。これはいかなる宝玉にも代えがたい。信仰者には天の国が約束されている。否、それはすでに始まっている。信仰生活は義務や束縛ではなく、喜びである。

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